密と非密 -共感(コミュニケーション)の根-

 ゴリラやチンパンジーやサルについて書かれた本を読むことがある。読んでいて楽しいということもあるが、理由を一つ付けるとすれば、人間を知りたいがためにである。ものごとは外部から眺めるとよくわかるというが、人間が人間を外から振り返る。動物行動学を研究する人たちも、きっと、おなじようなことなのではないかと想像する。
 人間のなにについてとくに知りたいかというと、いかにも野暮ったいいいかたかもしれないが、共感ということについてである。ちょっと恰好をつけていえば、コミュニケーションの本質的なありかたということ。

 まあ、むつかしことはいわずに、門外漢にも分かりやすく書かれた専門家の本をペラペラとめくっていると、ほんとうに、こころなごむ幾枚かの写真に出会う。動物たちが戯れている様子が写っている。また、なにげない行動であるにしても、遊んでいるように見えたりするのも不思議である。共感やコミュニケーションというものがすでに成立しているのであろうか(信頼があるとまでいえるのかもしれない)。いま、かりに、三つのカテゴリーに分ける。

 ①「合う」ということ
 これにはヴァリエーションがあって、「見つめ合う」「抱き合う」「組み合う」など。写真のなかで、母ゴリラと子ゴリラが見つめ合う。抱き合う。遊びなのか喧嘩なのか、ゴリラとゴリラが組み合う。

 ②「真似る」ということ
 一匹のチンパンジーが渡されたロープを雲梯を伝うように移動していくと、あとのチンパンジーがつづき、どんどん相似形が反復されていく。道を移動するときももちろん、最後尾はたいてい小さい相似形が追いかける。

 ③「取り換える」ということ
 子どものころこんな遊びをしなかったか。前かがみになった子の背中を跳び箱を跳ぶように越えていく。越えた子がこんどは「箱」になり、越された子が越えていく。越える越される(越される越える)が永遠に(?)反復され、やがて、遠景のなかに二人の子どもは消えていく。
 おなじように、サルがサルをまたぎ越し、またぎ越されたサルがまたぎ越したサルをまたまたぎ越していく。取り換えることのなかで、役割とか機能とかの区別を解消させていくかのように。
 

 ここからいろいろなことを考える。

 ゴリラやチンパンジーやサルについて書かれた本を読むかぎり、共感やコミュニケーションの根のところに、もっぱら抽象的(形式的)な「論理」というものではないが、いわば身体的な「彩」あるいは「柄」のようなものが見いだされるのではないか。つまり、身体的な「彩」あるいは「柄」が身体(身体たち)において「彩どられる」(あるいは、「柄づけられる」)とき、共感やコミュニケーションが発動するのではないか。あるいは、共感やコミュニケーションの素地が培養されるのではないか。
 そして、このような身体的な「彩」あるいは「柄」は、単調なものとしてあるのではなく、セーターの編み目模様(たとえば、アラン諸島のアラン模様)が多彩なように、多様なものとしてあるのではないか。
 さらに、さきに、行動を三つのカテゴリーに分けたが、それは、身体的な「彩」あるいは「柄」の類別に対応しているのではないか。
 確認しよう。

 ①の場合、見いだされる「彩」あるいは「柄」は「対称性」とすることができる。すなわち、手と手が、目と目が、対称的に「彩どられる」(あるいは、「柄づけられる」)とき、「見つめ合う」「抱き合う」「組み合う」など(「合う」の変異あるいは派生)が形成され、共感やコミュニケーションのなにほどかの素地が培養される。

 ②の場合、見いだされる「彩」あるいは「柄」は「相等性」とすることができる。すなわち、相等しいもの(それは、けっして、同一ではない)が反復的に「彩どられる」(あるいは、「柄づけられる」)とき、「連なる」「群れる」「並ぶ」など(「真似る」の変異あるいは派生)が形成され、おなじく、共感やコミュニケーションのなにほどかの素地が培養される。

 ③の場合、見いだされる「彩」あるいは「柄」は「交互性」とすることができる。すなわち、二つのものが交互に交代するように「彩どられる」(あるいは、「柄づけられる」)とき、「交代する」「交換する」など(「取り換える」の変異あるいは派生)が形成され、おなじく、共感やコミュニケーションのなにほどかの素地が培養される。
 

 そして、つぎに考える。
 身体的な「彩」あるいは「柄」が「彩どられる」(「柄づけられる」)のは、もちろん、身体的な〈密〉の状態においてである。言葉をかえていえば、「彩」や「柄」は、ただ肉の只中でこそ、彫琢されうる。
 
 であるとすれば、いま、大きな問題が突きつけられていることになりはしないか。というのも、〈密〉が忌避され、〈非密〉が推奨され、〈非密〉の時代を歓迎する声さえ聞こえるいま、共感やコミュニケーション(あるいは、信頼)の根そのものが問われかねないからである。

 悲観をしているのではない。キーは、やはり、「彩」(あるいは、「柄」)にあると思っている。〈非密〉の状態での「彩」(あるいは、「柄」)をどう想像するかにあると思っている。