〈三密〉〈三密〉とこぞって口にする。報道人も、学者も、主婦も、若者も、サラリーマンも、市井の商売人も。まるで袋叩きである。まことに肩身がせまい、〈三密〉は。
でも、どれほどの人が知っているのか。袋叩きにするなら、相手のこともちゃんと知っておいたほうがいいであろう、仏教の枢要な用語であることを。俄仕立ての標語でやりすごされるだけのものではない。
〈三密〉を避けよ、大合唱である。そのとおりなのだと思いながらも、声が大きければ大きいほど、後ろめたさもいよいよおさえることができない。
高野山はどうしているのか、〈三密〉は、仏教といっても、密教の用語である。黙っておれないのではないか。
〈三密〉は、仏の三つのはたらき。
すなわち、〈身密〉〈口密〉〈意密〉で、順番に、からだのはたらき、ことばのはたらき、こころのはたらき。三つは、不可思議なはたらきで、密をつけて〈三密〉という。
さて、密教といえば、弘法大師 空海。
『即身成仏義』に、「三密加持速疾顕」とある。よく引かれる言葉。密教の精髄がこめられている。噛みくだいていうと……。
仏に三つのはたらきがあるように、衆生にも三つのはたらきがある。
仏の三つのはたらきと、衆生の三つのはたらきとは、本来、あいひとしいおなじもの。照らし合っているといってもいい。映し合っているといってもいい。普段は気づかない。
瞑想は、普段は気づかないそうしたありかたを感得する技法。
瞑想のなかで、三つのはたらきをととのえる。からだのはたらきをととのえる(印をむすぶ)。ことばのはたらきをととのえる(真言をとなえる)。こころのはたらきをととのえる(集中する)。
そして、瞑想のなかで、かりに、それらの三つのはたらき(小宇宙)が、合わせ鏡のなかでのことのように、仏の三つのはたらき(大宇宙)と、照らし合うようなことになれば、映し合うようなことになれば、仏の不可思議なはたらきと融け合うということにもなるであろう。ひいては、仏とあいひとしいおなじものということを体感することにもなるであろう。
つまりは、「この身のままで仏になる(即身成仏)」ということが感得されるにいたるということにもなるであろう。
皮肉にもにわかに脚光をあびることになった〈三密〉。
どのキャスターやコメンテーターからも、〈三密〉の背景について聞いたことがない。ほんのひとことの配慮の仕草さえ見たことがない。
ごくわずかの研究者が、ブログやツイッターで、言及しているのをふと目にする。妙な親近感をおぼえる。その研究者は信頼するにたるとまで思ってしまう。
反対に、そのような背景についてはつゆも知らず(知っていれば、ある種の含羞のようなものが表情のどこかに偲ばれてしかるべきであろう)、強調するあまりなのはわかるが、声をうわずらせたり、品をつくったりして、たとえば要職にもあらん人の口から無造作に吐かれるのに出くわしたりすると、うすら寒い気持ちにさえなる。どうしたものか。