山と湯

時代は不透明で、不安は募るばかり。
どのように生きればいいのか。
もっとも、どのように生きればいいのか、立ちどまって考えることもない。
ただ惰性のままに、ありきたりの生を生きているだけ。
生きているというよりも、生きさせられている。
しかし、生きさせられていると気づいたとき、生きるとはなにかと巡らしはじめる。

先哲はいろいろなことを言った。
「魂を浄めよ」と。
「自己の圏外にあるものには関心をもたず、自己の圏内で最善をつくして生きよ」と。
「極端に走らず、中庸に、穏健に、生きよ」と。
「幾度となく同じ瞬間が訪れようとも、その都度、それを欲するといえるほどの強い意志をもって生きよ」と。
「直ちに利用されてしまう製材より、むしろ、利用されることのない樸(あらき)のままに生きよ」と。
「ものに実体はなく、縁起のなかで、ただ生まれては滅していくのであるから、ものにたいする執着を捨てよ」と。
それらの生きる指針は、しかしながら、人それぞれの選択にゆだねられた徳目にすぎないのであろうか。

ユーラシア大陸の東端の島国にあって、いまなにを考えることができるのか。
9・11を経験し、3・11を経験し、いまこの地でなにを考えればいいのであろうか。
 

 思えば、2001年、あのおぞましい事件からほんの数日たったある日、本州の北端、津軽の霊峰、岩木山の頂上にいた。「お山参詣」という、この地に古くから伝わる、集団登攀の信仰行事に参加していたのである。
 前日、麓の岩木山神社の境内では、老若男女が囃子に合わせて明け方まで踊り狂っていた。いったいなにがそうさせるのかと、あれやこれやと考えていたとき、ふと見あげると、一瞬、雲が流れ、月明かりに照らされた「お岩木さん」がその偉容をあらわにした。眩しくも山肌の深い艶。そして、なによりも、他を圧した大きさ。一心不乱の踊りはいまや目の前でなにの疑問もなかった。老若男女はこの「お岩木さん」といっしょに一心不乱に踊っていた。


 

 さて、「お岩木さん」の頂上でご来光を待つ。数日前の太平洋をこえた大陸でおこった白昼夢のような事件のことがどうしても脳裏にうかぶ。戦争は遠いところにあると思っていたけれども、身近なものなのだとあの瞬間以来妙に納得させられていた。いまここでも起こりうると思うと身が震えた。
 ただ祈っていた。
 そして、なぜここにいるのかと問うた。9・11の前から計画を立てていたとはいえ、なにをしにここに来たのかと。そして、「お岩木さん」はどういう場所なのかと。
 異貌の神がここを訪れたとしても、「お岩木さん」はきっと受けいれてくれるであろう。叫びに近い声がからだじゅうで唸っていた。

 信州の山深いところに、湯立ての祭りがある。「遠山の霜月祭り」という。「おっせおっせ祭り」ともいわれているが、祭りの期間、谷筋の狭隘な土地のあちこちの里で、順々に、日を押すように、祭りが執りおこなわれていく。
 祭場の中央には竈がしつらえられている。なかは薪の火が炊かれ、うえには水のそそがれた釜がおかれている。やがて、釜のなかで水が湯になり、湯気が濛濛と立ちのぼる。湯気のうえには、紙で細工された傘状のものが天井からぶらさげられている。紙細工は湯気でユラユラとあやしく揺れる。


 

 この幻想的な湯釜のまわりのどこか、肉眼ではかならずしも見ることのできない「湯殿」に、全国津々浦々の神々が招待されるという。一宮をはじめ由緒ある神々が招かれる。諏訪大社をはじめ近郊の神々もやってくる。地区内のインティメートな神霊たちもやってくる。招かれるべき神々にまじって招かれざる眷属や精霊たちもまぎれてやってきている。そして、神々は、一様に、お湯で饗応され、英気を養い、衰弱した力を回復していく。
 神々を招待する手法はすこぶる入念である。神名帳を長々と朗読し、また、歌唱のなかに神霊の名を歌いあげ、締め括りには、「神々のこらず」と、読みあげ忘れた神もあるやもしれず、歌い忘れた神霊もあるやもしれず、遺漏なきよう、万全が尽くされる。
 ある日、ある地区の祭りの祭場にいたとき、たしかに、途切れ途切れではあるが、湯気と煙のなかからこんなふうに聞こえてきた。「釈迦如来」「弘法大師」「道元禅師」「親鸞聖人」。そう、神仏も一緒なのであった。一緒にお湯に浸かるのであった。
 そのときも思った。異貌の神々も入浴可能なのかと。