肉彩と群舞

 もう三十年以上前のことになるだろうか、中国の雲南省の少数民族の村々をたずねたことがある。ナシ族だったか、ハニ族だったか、正確には忘れてしまったが、それぞれのエスニックの住まう二三の村を訪問した。

 まず、圧倒されたのは、少女たちによる歌唱にである。
 公民館のような建物の室内での上演ではあったが、金属性のかんだかい歌声が壁を突きぬけ、大地に響きわたった。いままで体験したことのない歌唱の力に打ちのめされる思いだった。
 しかし、それにまさるともおとらず、魅せられたものがある。それは少女たちによる群舞にである。いや、群舞という事象にではなく、群れるということのある驚異にといったほうが正確であるかもしれない。

 少女たちは、ステージのうえで、民族衣装につつまれ、横一列になっていた。背丈はまちまちのようでそろっていた。手や足の動作もそろっているようでまちまちだった。そろっているというところをつきつめていけば同一ということになるのであろうが、そのようなところにいたることはなかった。逆に、まちまちというところをつきつめていけば区別ということになるのであろうが、そのようなところにいたることはなかった。少女たちの肉体はどちらかの極端に帰結されることなく、あいだを漂っているかのようであった。

 それにしても、集団の歌舞ということであれば、日本において、なんども目にしていたはずである。たとえば、花街で催される舞妓さんや芸妓さんの舞踊公演には、いくどか足を運んでいた。ただ、その日のような愉悦の体験をしたことはない。だから、それは、ある気づき(覚醒)のようなものであったということができる。

 ……あいだを漂う少女たちの肉体はひとつながりの生地のように見えた。そして、魅せられるに決定的だったことは、それが生きている生地であるということを見いだしたことである。ただ、呼吸をしているとか、脈を打っているということではない。肉体(物理)的に生きているという以上の生きていることを見いだしたのである。そして、さらに決定的だったことは、つぎに、わたしの肉体もその生地とひとつながりになって生きているということを見いだしたことである。たしかに、わたしの肉体もふくめてひとつながりの〈肉の生地〉がそこに生きていたのである。そして、生きているからこそ、「感覚」も「意味」も(ちなみに、フランス語のsensは「感覚」でもあり「意味」でもある)、〈生地〉のただなかにおいて、胚胎されうるのであった。
 とまれ、単調からはほど遠く、運動というものがもっぱら抽象的な規則に従属するものであるとすれば、〈肉の生地〉は運動すらしていなかった。それは、むしろ、ひずみやゆらぎというにふさわしいもの、うがったいいかたをすれば、そこからなにかが動きだすという始原的な胎動を思わせる裂開であった。
 

 以上のことをもうすこし反省的に述べると、このようになろう。
 少女たちの肉体のなにもかもが、くりかえすが、背丈も手足の動作も、声の質感も、まちまちのようでそろっていた(そろっているようでまちまちであった)。
 そこで、つぎのように推理される。もし、完全にそろっていたとすれば、それは同一ということであって、それは静止ということであろうし、そこから群れるということはもとよりなにかが動きだすということはないであろう。反対に、完全にまちまちであったとすれば、それは区別ということであって、分断されたものどうしはどこまでも孤立したままで、そこからなにほどかのまとまりを示唆する群れるということ(集まるということであっても、並ぶということであってもいい)が与えられることはないであろう。
 つづけて、つぎのように推理される。なにかがうごめき、ひいては群れるということ(集まるということであっても、並ぶということであってもいい)が〈肉の生地〉のただなかで生起しうるとすれば、それは、そろっているようでまちまちである(まちまちであるようでそろっている)という矛盾といえば矛盾においてこそであると。いわば、論理の臨界においてこそであると。
 もろもろそのように推理されたとき、もはや、目の当たりにしている少女たちの群舞は驚異でしかなかった。
 

 ところで、どうであろうか。
 少女たちの肉体の外皮の奥に透視されるもの、それは、もっぱら抽象的な論理というのではないにしても、ある種の論理ではないか。〈肉の生地〉はカオスであるわけではなく、いわば、そこにべつの論理、〈肉の論理〉が息づいている。ただ、論理という言葉をつかっているが、もし、他の言葉で代替させるとすれば、それは彩である(「あやめもしらぬ恋もするかな」の「あや」である)。〈生地〉は彩どられることによってはじめて生きた〈肉の生地〉になる……。
 彩、〈肉の生地〉において彩どられる彩、そう、それを〈肉彩〉と呼ぼう。
 

 以上、はからずも、雲南省の奥地で、群舞の美を発見したのであるが、おなじように、群れるということの特異な美に魅せられた人に川端康成がいる。新聞連載小説、『古都』において、群舞の美は通奏低音のように鳴りつづけている。北山杉の林立するありさま、池の鯉の群れ泳ぐさま、そして、なによりも、主人公の双子の姉妹、千重子と苗子、また、千重子の幼なじみ真一とその兄の兄弟、それらのすべてが、そろっているようでまちまちである。まちまちのようでそろっている。
 小説に〈肉の論理〉が透かし模様のように折りこまれる。そして、双子の姉妹、千重子と苗子とが、結婚相手として、とりちがえられるという余話まで。まさしく〈肉彩の文学〉といわなければならない。